山形浩生といえば、まずはバロウズ。その彼が、やっと「たぶんバロウズについての本が書けるのは、これが最初で最後になるだろう。」という気合のもとにまとめたバロウズに関する諸々。
バロウズについて書きながら、彼はその先に文学の未来(?)を予見する断片を披露する。
「ぼくは、いずれ小説は自動化されるだろうと思っている。小説だけじゃない。ほぼあらゆるアートやエンターテイメント、コンピュータのアルゴリズムで表現されるようになり、そしてそのアルゴリズムをもとに「作者」というものなしに量産されるようになると思っている。ウィリアム・バロウズの本には、その可能性のかけらが見えている。それをどう実現するかというアルゴリズムが示されている。つまりウィリアム・バロウズは、作品と、それを作るアルゴリズムの分離の先鞭をつけた。」(同書、P031)
これは、バロウズのカットアップ手法をさしているのだが、そのカットアップに関する分析が秀逸。
「ウィリアム・バロウズの小説もそうだ。そこでは、ことばでしかできないこと、小説以外の形式では不可能なことが追求されている。それは何か?バロウズの小説を評価するのであれば、それを考えなきゃいけない。」(同書、P151)
そして「第8章 小説にしかできないこと」の中で、彼はカットアップのミクロ経済的なモデル化と分析を行う。(同書、P233-245)
その詳細はここでは割愛するが、さすが某シンクタンク勤めで、クルーグマンの経済書も訳しているだけあって、定量化の論法には説得力がある。
「バロウズを享受できる読者とは:
●おもしろいフレーズに過大な価値を置く人
●時間コスト(つまりは所得水準)がきわめて低い暇人
●文を読む速度が異様に速い人物」。(同書、P243)
バロウズのカットアップ小説を読んだことがある人ならば、「そんなの当たり前じゃないか?」と言いたくなるような結論が、このモデルから導かれる。
つまり、その小説を読む価値はコストに見合うかどうか?という話だ。
この場合のコストとは本の値段のことではなく、主に本を読むのに費やされる時間コストを指している。
しかし、このモデルを一般化して提起する問題はさらに奥深い。さらっと書かれているけど、この一節を読むだけでも、この本の価値があるといえる。
「最適な読みの概念構築」「人生の段階における急激な嗜好の変化の説明」「文化レベルとメディア」「情報の価値という問題」・・・なかなか刺激的だ。
そして、もうひとつ。本書の縦糸となっている「バロウズにとっての自由」。
「自由とコントロールのバランスは、それがどれだけの価値を生み出すか、ということによって評価されなきゃいけない。
で、バロウズはいったい自由を使って何をしようとしたんだろうか?価値を生み出すために具体的にかれは何をしただろうか?何も。」(本書、P329)
実は、この文章の前にレッシグへの言及がある。
「フリーなものとコントロールされているものとは相互に依存しあうことで、お互いの価値を高めあう。これはローレンス・レッシグが、現時点での最新刊『コモンズ』で論じている通り。」(本書、P329)
このblogで、山形と大塚とレッシグの3人の本をネタにあげたのは、そこに"コモンズ"があると思ったからだ。
まずは、次のエントリーで、山形と大塚について・・・。
<引用部分は全て『たかがバロウズ本。』より (c)2003 山形浩生>
<03/09/20 00:31>